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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ゴッホ
ギャラリーアオキ
フィンセント・ファン・ゴッホ
炎の画家
vincent Willem Van Gogh
1859〜1890
オランダ
概要
フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ南部の小さな町フロート・ズンデルトで生まれた。
祖父も父も牧師であることからフィンセントにも同じ道が考えられたが人から強制されることが嫌いで頑固な性格のゴッホは学校になじめず退学となった。
絵心のあったゴッホは叔父の紹介でパリの一流画商グービル商会ハーグ支店に勤める。この時に失恋をするのだが、その後にも経験する何度かの失恋がゴッホの心に深い傷をもたらしたようだ。
1876年画商を解雇されたゴッホは聖職に就くために勉強に励むがラテン語の勉強について行けず正規の牧師になる道は閉ざされてしまう。
見習いの伝道師として炭鉱や農村を廻った時、ミレーのように貧しい農村の労働者を描きたいと想いデッサンをしている。
伝道師としての任期も延長されず残された道は絵を描くことだけだった。
弟のテオから絵を送ることを条件に援助が受けられるようになったゴッホだが作風は暗く、32歳になっても売れない絵を弟に送り続けるゴッホは家族の厄介者だった。アカデミーでも絵画を学ぶのだが基礎の繰り返しで長続きせずパリのモンマルトルに住む弟テオのもとに転がり込む、そこでパリの最先端の絵画の潮流を知ることになる。
ピサロ
、ギヨマン、シャニック、
セザンヌ
、スーラ等の作品である。
彼らとの交流でゴッホのパレットは明るくなった。しかしパリでの生活はゴッホに向いていなかったようだ。
1888年ロートレックの勧めもあり、生活費の安さと太陽を求めてフランス南部のアルルに移る。そしてこの地から数々の名作が生まれることになる。
アルルでのゴーギャンとの共同生活は有名だがゴッホの強すぎる個性のため僅か二ヶ月で悲劇の別れを迎え、そのショックもあったのだろうか精神の不安定な日々を送るようになると、自らアルル近郊にあるサンレミの療養所に入り療養に努める。弟テオに勧められガシュ医師がいるパリ近郊のオヴェールへ移るが不安定な精神と強い孤独感にさいなまれ1890年ピストルで自らの生涯を閉じた。
享年37歳だった。
実力が開花したオランダ・ニューネン時代
1883年後半からの2年間オランダのニューネンで過ごし、主に働く人々の生活をテーマにした作品を何点も描いている。「本当に価値のあるものは汗して働く生活の中にあるんだ」とゴッホは言っている。特にフランソワ・ミレーの農業労働者を描いた作品には感銘を受け大いに感化されている。1885年最初の傑作『ジャガイモを食べる人々』を完成させ「自分の作品は他人のものと比べても引けを取らないと思う」と自信の一端を口にしている。
1885年「ジャガイモを食べる人々」
油彩 カンヴァス 82x114cm
新しい刺激を受けたパリ生活
しかし、オランダの地方都市では絵で稼げる可能性は無いと考えたゴッホは1886年、弟のテオの住むアパルトマンに突如転がり込む。テオを通じて印象派の存在を知り、その鮮やかで明るい作風と筆致の分かる筆遣いに衝撃を受け、試行錯誤をしながら新しいゴッホのスタイルが生まれ始めた。
さらにゴッホは画商ビングの屋根裏で一万枚もの浮世絵と出会い大きなショックを受けた。この経験がゴッホを「ジャポニズムの旗手」たる道を歩ませることとなった。
アルルの明るい空気が生み出した傑作。
しかし、作品は売れずつらい現実に疲れ徐々に精神的安定を欠くようになった。
友人ロートレックの勧めで南仏の田舎町アルルに移り住むことになるのだが、そのたった一年弱の間に傑作を次々と生み出し風景画、肖像画、静物画などモティーフの幅も広がり眠っていたゴッホの才能が一気に花開いた感がある。
南仏の明るい空気とゴッホが感じていた日本のイメージが彼の想像力を広げ、オランダ時代には全く感じなかったジャポニズムによるインスピレーションが次から次に湧いて出てきたようだ。テオに送った手紙の中に日本にあこがれる思いが何度も書かれている。
1888年 「アルルの跳ね橋」
油彩 カンヴァス 53.4x64cm
弟テオの支え
ゴッホは生涯で一枚の絵しか売れていない。ゴッホの画家生活を経済的、精神的に支えたのは弟のテオである。テオなくしてゴッホはなかったと考える評論家は多い。テオは兄だから支援したというよりはゴッホの画家としての才能を評価していた。テオ自身もグービル商会という画商に勤務しており絵画を観る目は確かであった。テオは毎月生活費を送り、画材や参考図書、版画や資料まで様々なゴッホの要求い答えている。ゴッホが世界的に有名になるのもテオとの「書簡集」が世に出たことがきっかけとなっている。
ゴーギャンとの生活
ゴッホは何度もゴーギャンに手紙でアルルに誘っている。ゴーギャンはその誘いに応え、通称「黄色い家」で共同生活をスタートしたが、「夢」を語るゴッホと「現実を正面から見ろ」というゴーギャンとはタイプも生き方も大きく異なり口論が絶えなかった。そのためかどうかわからないがゴッホのうつ病が悪化の一途をたどりゴーギャンは身の危険を感じるようになりアルルを離れる決意をする。
激しい言い争いの末ゴッホは自らの耳を切り落とすという信じられない行動をとり二人の関係は完全に破綻した。わずか2か月という短い期間の出来事であった。
サンレミ療養院にて
アルルの人々はゴッホがアルルに住み続けることを拒否した。ゴッホ自身も幻覚に悩むようになり1889年5月、自ら南仏サン=レミにある精神病棟にて治療を受けることになる。
ゴッホは翌年の5月までの一年間の入院生活の間に140点以上もの作品を描いているがその作品の多くにも傑作を残している。
1889年 「アイリス」
油彩 カンヴァス 71.1x93cm
オーヴェールにて「最後のゴッホ」
サンレミの精神病院を退院後、パリ郊外オーヴェールのガシュ医師の診察を受けながら作品制作に収集した。燃え尽きる前のろうそくの火のようにパワーを見せ2か月の間に80点もの作品を描いている。ゴッホは精神の限界を迎えていたのだろうか1890年7月27日、昼食後、風景を描くために外出し、訪れた麦畑の中で自らの胸を銃で撃ちぬいた。その2日後、弟テオに抱えながら永眠した。
享年37歳。
1890年 「オーヴェールの景色」
油彩 カンヴァス
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