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ヤコブ・カミーユ・ピサロは当時デンマーク領だった西インド諸島のセント・トーマス島に生まれる。 父はスペイン系ユダヤ人で雑貨商を営んでいた。成人して家業を手伝っていたピサロはこの島にやって来たデンマーク人の画家フリッツ・メルビーと出会い絵画への関心を膨らませる。そして1855年両親の了解を得て画家になるべくパリへ向かった。 パリで当時の代表的画家ドラクロワやアングルの作品を目にするが、彼の心をとらえたのはコローやドービニーの風景画だった。 ピサロはパリ郊外で制作することが多かったが、パリ市内のアカデミー・スイスにも通うようになり、ここでモネヤ、セザンヌを知るようになる。 この頃のピサロは親の意向もあって、盛んにサロンへの応募を繰り返していた。しかし伝統にそぐわない絵画を描く画家たちはことごとく落選の憂き目に会うことになる。ピサロもその一人であった。 彼はシスレー、バジール、ルノワール、モネらとともに独自の展覧会の必要性について話し合った。 まもなく普仏戦争が始まり、展覧会の話も立ち消えとなり、フランス国籍を持たないピサロはロンドンに避難することとなる。 動乱が収まるとピサロはパリに戻った。その頃パリでは独自のグループ展の話が再燃。 ピサロは画家のための民主的な組織を作り上げ、グループ展のリーダー的存在となっていた。おおらかで謙虚な性格は人望を集めた。 セザンヌ、ドガ、ゴーギャン、スーラ、シャニックなどあまり人付き合いの良くない画家たちもピサロの尽力によって印象派展に参加するようになる。 八回開催された印象派展を裏から支えたのはピサロであり、全ての会に出品したのもピサロただ一人だった。 ピサロなしに印象派の成功はなかったであろう。 |
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ピサロの作品 | ||||
印象派と呼ばれる画家たち「ピサロ」 | ||||
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