私について語ろう |
私の名はアンリ・ルソー。
パリから西に240キロほど離れたラヴァルという町に生まれ育った。
父親はブリキ職人で家は貧しかった。子供のころは勉強は嫌いでね、そうだな・・・得意なものはと言ったら図工と音楽ぐらいなものだったね。性格はおとなしかったよ。
家が貧しかったのと勉強が得意じゃなかったことなどで高校も中退し働きに出たのだが、悪友にそそのかされて窃盗の罪で逮捕されてしまったのさ。そんな時、兵隊に志願すると減刑してもらえるという話を聞いたので志願兵になったのだが海外経験のある兵士からジャングルの話を聞いてね、なんだかワクワクしながら聞いたのを覚えてるよ。その話を面白おかしく自分のことのように語ったら結構受けてね、そのことが後にジャングルの絵を描くきっかけとなったんだ。
1868年、除隊してパリに出たんだ。そして入市税関の職員として働くことになった。おかげで「税関史ルソー」というあだ名がついたのだが、正直に言うと下級職員だったのさ。
税関史の方が世間体が良いので皆がそう呼ぶのならそれでいいかと思っている。
当時、下宿先のクレマンス・ボワタールという娘と知り合い結婚したのだが仕事はきつく家に帰れば病気がちなクレマンスの看病と子供たちの世話もしなければならなかった。
それでも、少ない時間の中で絵をかいていた。えっ「いったいいつ絵の勉強をしたのかって」独学だよ。ルーブル美術館に通ってね。模写をするのさ、模写は大変勉強になるんだ。
私にとってはルーブル美術館は最高の美術学校なのさ。私だけじゃない色々な人たちが模写をしていた。それを覘いて回るのさ。それも結構勉強になるんだ。
子供は7人生まれたが5人は早世してしまった。1888年には妻のクレマンスも他界し、寂しい日々を過ごしていたよ。
もちろん、この時も絵を描いていた。気もまぎれるしね。無審査の公募展「アンデパンダン展」には毎年出品していたんだがいつも私の絵は笑いの種だった。
1889年、パリ万博が開かれてアフリカの国から出品された熱帯植物が展示されていた。それを見た時志願兵で聞いたジャングルの話が突然蘇ってきたのさ。
その時「これだ!」と思った。
その時に初めて描いたジャングルの絵が下の絵なんだ。