私について語ろう |
私の名はパブロ・ピカソ。世間ではへんてこな絵を描くやつだと思われている。 何しろ好奇心が強いものでいろいろな技法や構図を 試したくなるのだ。人々が私の絵を見て笑ったり、眉を顰めたりする姿を見て楽しんでいるのさ。だから、型にはまったスタイルはあまり好きじゃないんだ。
私はスペインのアンダルシア地方の港町マラガという町で生まれた。父は美術教師だったので幼いころからたくさんの絵を見て育ち、私自身も絵を描くことは大好きだった。自分で言うのも気恥ずかしいが子供のころから描写力には才能があったと思うよ。周囲の勧めで王立美術アカデミーに入学したが、そこには自分の好奇心を満足させてくれるようなものは何もなかった。それよりプラド美術館でベラスケスやゴヤの作品を観ていた方がよほど勉強になった。
1900年、友人の画家カザジェマスと共にパリにでた。パリは何といっても芸術文化の中心だったからね。楽しいことが起きそうで19歳の私はウキウキしてた、そして毎日ルーブル美術館に通ったものだ。ところが1年後、友人のカザジェマスが失恋して自殺してしまったのだ。彼がだいぶ落ち込んでいたことは知っていたがまさか、自殺するほどとは思っていなかった。私にとっては大変なショックだった。彼のために何も力になってあげられなかったのだからね。私も立ち治るまで時間がかかった。そのころの作品には青色ばかり使っていたよ。作風も暗いものが多かった。後世の評論家はそのころのことを「青の時代」と呼んでいた。
「人生」 1903年 油彩 カンヴァス 196.5x129.2cm
1904年、22歳になった私はパリに定住することを決めた。私の芸術活動にとって女性関係は大変重要な要素になっているので、そのことにも触れないわけにはいかないだろう。このころ、最初の恋人フェルナンド・オリビエと出会い、精神的にも安定し作品にも明るい色彩を多用するようになった。そしてこの頃から作品も少しづつ売れるようになり画家として食べていける自信も湧いてきた。
1907年、 「アヴィニョンの娘たち」 を完成させた。スペインのバルセロナのアビニョー通りにある娼婦宿が作品のヒントだが私にとっては「キュビズム」の最初の作品だ。かなり革新的な試みであったせいか当初はあまり理解されなかった。
友人のジョルジュ・ブラックがこの作品を観た時も「醜く荒々しい」と評していた。私がこうした作品を描いたからと言ってキュビストになったというわけではない、私にとっては試みの一つでしかないのだ。
「アヴィニョンの娘たち」 1907年 油彩 カンヴァス 243.9x233.7cm
1911年、最初の恋人 フェルナンド・オリビエと別れた私は新しい恋人マルセル・アンベールとモンパルナスに住んだ。恋人が変わるとなぜか自身の画風も変わり「キュビズム」をもっと進化させた「抽象画」へと移行した。しかし、1915年に恋人フェルナンド・オリビエが病死してしまい、孤独な生活を余儀なくされた。
1917年、仕事でイタリアへ行くことになり、そこでバレリーナのオルガ・コクローワと出会い翌年結婚した。ロシア貴族の末裔の出身であるオルガとの結婚生活はとてもブルジョア的で新鮮だったが私にとってはとても窮屈なものでもあった。新婚当時の画風は明確な輪郭線を用いて描く「新古典主義的」作風だったが、1925年に「第1回シュルレアリズム展」に参加して強く興味をひかれた。そして妻オルガとの仲も急速に冷え、30歳も年下のマリー・テレワーズ・ワルターと交際を始めると更に極端に変形した人体を描くことに興味が写っていった。
「安楽椅子のオルガ」 1917年 油彩 カンヴァス 130x88.8cm
作品解説 |