私について語ろう |
私の名はジャン=フランソワ・ミレー。1814年、フランスの北西部ノルマンディー地方、シェルブール近郊の小さな村で生まれた。8人兄弟の二番目だが長男だった。
家は農家だったが父は音楽好きで温厚な人だった。母は父を手伝い忙しい毎日だったので私は祖母に育てられたと言っていい、信仰厚く慈悲深い人柄だった祖母は8人もの孫を深い愛情をもって育ててくれたのだ。祖母の兄弟には何人かの聖職者がおり家には宗教関連の蔵書が何冊もあった。私は農家の仕事の手伝いをしながらそうした本を読んだり写生をしたりして過ごした。父は写生好きな私を見て絵の勉強をさせるためにシェルブールにいた画家に弟子入りさせてくれた。
当時、長男が家を継がずに画家になりたいなどと言ったら大反対する家庭が多かったはずだが私の場合、理解ある父親を持ったおかげですんなりと画家への第一歩を踏み出すことが出来た。
その理解ある父親も2年後に亡くなってしまい誠に残念だ。成功した私の姿を見てもらいたかった。
その後は祖母の応援でパリで勉強するための奨学金を得てパリの絵画教室に入学した。そう私が22歳の時だった。
私は幼い時から無口でやや内向的な性格だったため同じ学生仲間から「森の人」というあだ名をつけられたりし、教室の雰囲気や先生の指導にもなじめず2年後には奨学金も打ち切られてしまった。
生活に困り、教室を去り装飾画や裸体画を描きながらパリでの生活費を稼いでいた。
1840年、肖像画がサロンに初入選したの機にシェルブールに戻り肖像画家として出発をし1841年、仕立て屋の娘ポリーヌ・V・オノと結婚した。しかし、パリで認められたいとの思いから再びパリに出るが絵は売れず生活は苦しく1844年にはもともと病弱だった妻ポリーヌは結核で死んでしまった。たった3年の貧困と闘病の結婚生活だった。妻には何の楽しみも与えてやれず残念でならない。
苦難のパリから再びシェルブールに戻り、地元のホテルで働くカトリーヌ・ルメールと知り合い一緒に暮らし始めるが相変わらず生活は苦しく何とかしなければとの思いから何人かの友人が住むセーヌ川河口の町ル・アーブルに移り住んだ。
「ミレー婦人」 カトリーヌ・ルメール
カトリーヌは貧しい農家の娘で私の実家ではこの結婚に反対していた。私は彼女の明るい性格が気に入っていた。貧困生活にも耐え、体も丈夫で畑仕事も嫌がらずよく働く、しかも、9人の子供を産み育てたのだから私にとっては天使のような存在だったのだ。
その後の私の人生は彼女に支えられたと言っていい。
ル・アーブルでの私は積極的に活動した。そこでは肖像画の注文も受けたし個展も開けた。
将来への光がうっすらと見え始めてきた私は三度パリに挑戦したくなり1845年パリで活動を始めた。何となくうまくいきそうな気がしたんだ。
私はパリでブルジョア的な嗜好ではなく労働をテーマに描くことが多くなった。子供のころの祖母の深い信仰心と聖書を読んで育ったことで汗して働く農夫の姿に強く惹かれたのである。
1848年サロンで「箕をふるう人」が好評となり政府の買い上げとなった。こうした出来事が私に自信を与えてくれた。
1847年「箕をふるう人」油彩 100.5x71cm ロンドン・ナショナルギャラリー
1849年パリでコレラが蔓延しはじめた。私は家族を連れてパリ郊外のバルビゾン村に避難
したが、そこにはテオドール・ルソーやコロー、ドービニーなどが住んでおり互いに親しくなった。特にテオドール・ルソーとは旧知の仲で何かと住み心地もよく村も気に入ったため
結局バルビゾン村に腰を落ち着けた。
私の家族写真 私が40歳の時
生活は相変わらず苦しく1851年5月に祖母が亡くなったが里帰りの旅費も工面が付かず葬儀にも出れなかった。
しかし、1853年サロンに出品した「刈り入れ人たちの休息」が二等賞を獲得し、この頃から私の名があちこちで聞かれるようになり絵も売れるようになってきた。
1852年 「刈り入れ人の休息」油彩 67.3x119.7cm ボストン美術館
1857年 「落穂ひろい」油彩 83.5x111cm オルセー美術館
そんな時、パリの画商から専売契約をしたいとの申し出があり、ずいぶんと喜んだもんだ。
1860年にパリの画商ステヴァンス商会との間で三年契約を結びついに私は長い貧困生活にピリオドを打った。これからは日々の生活やサロンを気にせず描きたいものが描ける。これは多くの貧乏画家にとっての夢でもあるのだ。
1867年、パリ万博が開催され私の作品も展示された。おそらく私にとって生涯で最も輝いていた年ではないかと思う。そんな中唯一残念だったのが親友のルソーの死だ。彼とは苦労を共にし良き相談相手でもあった。
翌年には政府から勲章までいただいたが、ルソーが元気でいたならきっと自分のことのように喜んでくれていただろう。残念だ。
私自身も持病の神経痛や頭痛で1871年ごろから悩まされていた。次々に注文が来るがなかなか思うように描けずイライラしたものだ。
1875年1月3日、妻のカトリーヌと教会で結婚式をあげた。「え!なんで今頃」と思うかもしれないが、もちろん籍は20年前に入っていたのだが永い貧乏生活のため式は上げていなかった。私の今日の栄光は妻のカトリーヌなしでは考えられない。私に死が近づいていたことは誰もが認識していたし、このときを逃せばもう機会はないだろうと思ったからだ。なんとか妻の苦労に報いてやりたかったというのが本音だ。妻や子供たちも喜んでくれたと思う。
そして、私は、同月の20日に天国に召された。61歳だった。
私は友人テオドール・ルソーの墓の隣に埋葬された。天国で絵画談議が出来そうだ。
最後に私の作品に対する考え方を述べておこう。
私は作品の構図やテーマを考えるときに「家族」と「信仰」という二つの要素を無意識にあるいは意識的に導入する。それは人間の生活の中で根源的なものであるからだ。それなしに描かれたものが私には空虚なものに感じられて仕方がないのだ。もちろん芸術という観点から観れば多様な考えと多様な表現があってもよいし、そしてそれを否定するつもりもない。
ただ、私にとっては「家族」と「信仰」は私の幼い時からの生活の中心に存在していた。そして成人後も「家族」と「信仰」に支えられてきたがゆえにそれが私の画風を創り出したのである。
人間の根源的な価値を表現するのに農家の暮らしや農民の労働は良き題材でもあるのだ。
私が農民画家と呼ばれるのはそうした理由からだと思う。
結局、私がバルビゾン村に住んだのは神の思し召しだったのだ。
ここまで読んでくれてありがとう。
ミレーという人間が少しは分かってもらえただろうか。色々あったが私の画家人生には満足している。皆様にも神のご加護がありますよう。
それでは皆さんさようなら。
西洋美術館著
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