私について語ろう |
私の名はポール・セザンヌ。南フランスのプロヴァンスに生まれ育った。
人々は私のことを頑固な変わり者として見ていた。どうやら性格は私の父に似てしまったようだ。
私の父は無一文から財を成して銀行まで作ってしまった人物だが頑固者で家庭では暴君であった。私もそんな父に似て強情で怒りっぽい性格だったと母は嘆いていたが落書きをしている時は夢中になり静かで集中していたと言う。
事実、絵を描くことは大好きだった。中学に入ってエミール・ゾラと知り合い二人でよく絵の話をしたものだ。しかし、父は私を銀行の跡取りにしようと考えていたので大学の法学部に進学したのだが、それより以前から絵の素描学校には通っていたし画家になりたかった。もちろん、父は私が画家になることなど大反対であった。そんなわけで何とも煮え切らない日々が続いたが私の描いた肖像画が素描学校で二等賞となり、父も渋々画家になることを認めてくれた。22歳になった私はもっと広い世界で勉強したいと思いパリに出た。
パリでゾラとの再会やピサロとの出会いはあったが田舎者の私には都会の空気がまるで合わなかった。そのうえ美術学校の入学にも失敗し画家になる熱意も失ってしまった。
『レヴェルマン』紙を読むルイ・オーギュスト・セザンヌの肖像
1866年 ワシントン・ナショナルギャラリー
「セザンヌの父」
結局、たった5か月で故郷のエクスに戻った私に父は勝ち誇ったかのように迎え、父の銀行で働くことになったのだが、残念なことにこの点は父に似ず銀行家としての才はなかったのだろう私の無能ぶりに父もあきれ大いに落胆したようだ。私自身も画家になる夢は諦めきれず再びパリに出た。流石に今度ばかりは父も反対しなかった。
パリでは画塾に通いサロン(官展)に応募を繰り返すがことごとく落選し、画塾で知り合ったモネやルノワールからも離れていった。パリジャンのマネからは田舎者扱いされ、内向的な私にはどうもパリの空気が合わない、しかし、孤独な日々の中で知り合ったモデルのオルタンス・フィッケには心癒された。
オヴェール・シュル・オワースの首吊りの家
1873年 オルセー美術館
1872年、この頃から自分の絵に行き詰まりを感じていた私はピサロと一緒にイーゼルを並べることが自分のためになると感じ始めていた。彼に会う以前の作品は暗く陰湿な作品が多かったしタッチにも大胆さがなかった。それが、タッチや色彩にも明るさが目立つようになり周囲の評判にも高評価が得られるようになってきた。
そんな中、1874年ピサロやモネを中心に「第一回印象派展」正しくは(画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展)が開催された。
上の作品「オヴェール・シュル・オワースの首吊りの家」は私の出展作品だが評論家からは酷評の的になり散々であった。
その後も何度か「印象派展」には出品したがモネやピサロが目指す印象主義と物事の本質を追求する私の作品スタイルとの違いを感じ徐々に印象派から距離を置くようになってしまった。
同じ時期、父に内緒にしていた内縁の妻オルタンスと子供のことがばれて仕送りを止められてしまったため困窮しながらの制作を余儀なくされた。今まで金銭に不自由しなかった私にとっては日々の暮らしは少々きつかった。
それでも印象派仲間との付き合いは続いていたし、互いに貧しいため助け合ってもいた。
そうした仲間たちもサロンでの入賞を果たし、彼らの作品も徐々に売れるようになっていった。
1882年、私はパリでの生活に見切りをつけ故郷のエクスに引きこもり制作をつづけた。
私は相変わらずパットせず注目もされず、当然絵も売れることはなかった。
1886年、そんな中、長年の友人で小説家のゾラが小説「制作」を発表し話題となった。画家を目指した主人公が夢破れて自殺するという内容であり、私をモデルにしたのではないかと疑ってしまった。その結果、友人関係も途切れてしまったのだ。
とにかく精神的にも経済的にもどん底であった。オルタンスとの関係もすっかり冷えてしまった。
1877年 「赤い肘掛椅子のセザンヌ夫人」オルタンス
ところが同じ年の10月、父が亡くなった。私は莫大な遺産を相続し長年苦しんだ貧困生活から解放されたのである。しかし、パリでは画家としてのセザンヌはすっかり忘れられてしまった。
再び、ところがである、パリで私の絵に注目が集まりだしたのである。モンマルトルの画材屋タンギー爺さんに預けていた作品が収集家の目に止まり雑誌に紹介されパリの美術界に広まったのである。その後様々な展覧会では特別扱いをされ私の名は一気に広まった。
しかし、私にとっては今更である。私の作品が評価されるのは大いに結構なことだが貧困生活から脱し故郷のエクスで自由に制作している今の私にとってはお金や名声には興味がなくなっていたのだ
もともと私はお金や名声に興味も執着もなかった。絵を描くことが好きだった。ただそれだけなのだ。パリに出たのも絵画に関する向学心と自身の作品のレベルを知りたかったことが主な理由だった。
パリの雑踏が時々懐かしく感じることがあるが、やはり私はこの南フランス、プロヴァンス地方の自然を相手に筆を執りたい。
私は父に似て頑固で融通のきかない人間だ、決して饒舌でもないし明るい人間でもない、だから友人も少ないし、良き理解者もいない。そんなことから少々変人扱いされている。
今更ちやほやされたいとも思わないが、世間の人は私のことを誤解しているのかもしれないと思うとちょっと残念な気がする。
私は絵を描くことが好きなだけで何の野心もない単純な人間なのだ。
最後に私の美術観について話しておこう。
私はモティーフが重要だと思っている。モティーフの本質を描くことが私の制作スタイルの重要な柱なのだ。もちろん、タッチや色彩も大切なことはよく分かっている。その点は印象派仲間から十分に学んだ。
モティーフの本質を描くという事がどういうことなのか、それが常に私自身の課題であった。私の絵画人生はそのことに尽きるような気がする。
1899年「りんごとオレンジ」
私にとってモティーフと言えば「りんご」が第一に頭に浮かぶ、ある日美術評論家のジェフロワにこんなことを言った記憶がある。「いまに、りんご一つでパリ中を驚かせてみせる」
ジェフロワは苦笑いをしていた。
私の静物画には「りんご」が多く登場する。毎日りんごを観ながら考えるのだ、置く場所を変え、見る角度を変え、見る時間を変え一つのりんごを何度も描いてみる。すると「りんご」が「私のりんご」に変化するのだ。誰もが見える「りんご」ではなく私しか見えない「私のりんご」となる。
それが本質を描くという事なのかもしれないと思っている。私の作品が後のキュビズムなどに影響を与えたという人がいるが、もしそうなら私もうれしい。
西洋絵画美術館著
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