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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。佐伯祐三 

佐伯祐三

パリに生涯をかけた男



Yuzou Saeki

1898〜1928

 

日本
佐伯祐三 
 1898年、大阪府にある光徳寺の次男として生まれる。
1918年、東京美術学校西洋画科予備科に入学。1921年池田米子と結婚する。
1924年、26歳。1月4日初めてパリにの土を踏む。
佐伯祐三の残された作品の量と質を考えたとき画家としての生涯はあまりにも短い。
わずか5年の画家生活の中に佐伯の活動は凝縮されている。
パリ滞在中は里見勝三、小島善太郎などとも交流が深まりしだいにパリの街になじんでいくと同時にセザンヌ、ゴーギャン、ルノワール、ヴラマンクなどの作品から何かを学び取ることに集中し、特にセザンヌ、ヴラマンクに傾注していった。
そのためパリ滞在初期の作品にはセザンヌの画風が随所に描かれている。
しかし、佐伯の作品からはアカデミスムの匂いがするとヴラマンクに非難されたことが彼の作品の制作に大きな転換点を与えたようだ。その後の佐伯はモティーフ選びに強いこだわりを持つようになった。

佐伯はヴラマンクが住むオーヴェールの村でゴッホも描いた村の風景を積極的に描いていたがその作風はヴラマンク風に傾斜していった。
友人への手紙にも「自分はヴラマンクが一番好きだ、ルオーやマティスもいいが、いつも教えてもらっているせいか、ともかく性格が同一だから一番良い。自分はヴラマンクを信じ切っている。」と書き送っている。
また、佐伯はユトリロの展覧会も見ている。手紙には「ドランやピカソよりユトリロが好きになった」とも書いている。

1926年3月、日本に帰国。国内でのグループ展や「二科展」などでは佐伯の作品について多くの議論がなされている。肯定的な評価と批判が相半ばする状態であった。
1927年、再度渡欧し、モンパルナスに居を構える。29歳
当時パリには300人を超える日本人画家が活動していたが佐伯はそうした画家たちとの絵画談議には参加しなかった。「議論より絵筆を」というタイプでやや孤独な一面があったが、それは彼自身が「結核」という病に侵され、あまり余命のないことを自覚していたからかもしれない。
1928年に入ると毎月30点以上の作品を描くようになる。
作風もヴラマンクやユトリロから脱し佐伯色の強い作品が目立った



 「郵便配達夫」

米子夫人の記憶によると、たまたま階段を下りて買い物に行こうとすると、その途中この美しい髭の郵便配達夫にあったという。買い物から帰ってくると佐伯はすでにその老人をモデルに依頼し承諾を得て嬉しそうであった。
翌日、彼の半身像を油絵とガッシュで描き、その翌日には全身像仕上げている。
このころの佐伯は体調を崩し戸外に出られない状態となり自身の最後を悟ったような悲痛なまでの気迫が感じられる


この後、結核と神経衰弱がひどくなり郊外の精神病院に入院する。
1928年8月16日病院にて死亡。同年同月30日、愛児の彌智子も結核にて死亡。


 作品はギャラリーアオキ「佐伯祐三」のページで購入できます。