ラファエロは1483年4月6日、イタリア中部のウルピーノに生まれる。
8歳のときに母が、11歳のときに宮廷画家だった父が死去。ペルージャに出てペルジーノの工房に入門。フィレンツェに滞在しあと、1508年に同郷の建築家ブラマンテの推薦でローマに出る。ヴァテイカン宮殿の「署名の問」壁画などを制作。
1520年4月6日、37歳の誕生日に死去。
パンテオンに埋葬される。
1505年のフィレンツェ。レオナル・ド・ダヴィンチとミケランジェロが政庁の壁画を競作しようとしたとき、その下絵を熱心に見ていた青年がいた。若き日のラファエロである。彼は長時間その場に立ち尽くし、二人の巨匠の画風を目に焼き付けていた。
ラファエロは二人の巨匠から模倣するものと捨てるものとをうまく総合し独自の画風を作り上げたのである。
彼は生涯に30点近くの聖母子像を残したが、その半分以上は4年しか滞在しなかったフィレンツェ時代に制作したものだ。それらは少しづつ異なっているものの、例外なく赤い服に青いマントを羽織った聖母マリアが裸の幼児キリストを包み込み、二等辺三角形の構図に収まっている。やわらかい陰影や安定感のある人物のポーズは、明らかにレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」からの影響が見て取れる。
しかし、ラファエロの「聖母子」は他を圧倒している。穏やかで甘く、心和む「聖母子」なのであるが誠に上品でもあり正に「聖母子」中の「聖母子」なのである。
彼は絵画制作だけでなく、サンピエトロ大聖堂の主任建築家や古代遺跡発掘の監督官にも任命された。教皇お気に入りのエリートなのだが大変な女好きで「度を越した放蕩にふけっていた」という。
早死にしたのもそうした不摂生が原因ではないかと言われている。
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