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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。レオナルド・ダ・ヴィンチ 

ミケランジェロ・ブオナローティ

発想の天才



Michelangelo Buonarrothi

1475〜1564

 

イタリア
 ミケランジェロ


ミケランジェロはイタリアルネサンスの3大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ天才芸術家のひとり。
1475年3月6日、イタリア中部のカブレーゼに生まれ、すぐに石工の家へ里子に出される。6歳のとき母死去。画家ギルラングイオの工房を経て、メディチ家の文化・芸術サークルに触れ、彫刻を学ぶ。
1505年、教皇ユリウス2世に呼ばれてローマへ。教皇の依頼した墓廟の制作が以後40年にわたって彼を苦しめる。
1512年にはシステイーナ礼拝堂の天井画を、1541年には同礼拝堂の壁面に『最後の審判』を完成。
晩年にはサン・ヒエトロ大聖堂の設計と建造を組当した。1564年2月18日、ローマにて死去。享年88歳。

ミケランジェロ自身は生涯を通じて画家よりは彫刻家としての興味のほうが勝っていたように思える。20代で早くも彼の代表作「ピエタ」と「ダヴィデ」を完成させ名声を確立しているのだが、最大のパトロンであるローマ教皇から壁画や建築の依頼を受け彫刻に専念できないことにある種のストレスを感じていたのではないだろうか。



         『ピエタ』

最初の教皇はユリウス2世だった。ユリウスは自身の巨大な墓廟をミケランジェロに依頼しミケランジェロがその準備を始めると、突然心変わりしシスティーナ礼拝堂の天井画を描けという。


  第216代ローマ教皇「ユリウス2世」 ラファエロ作

それも巨大な天井画だ。それをミケランジェロは4年間をかけてたった一人でやり遂げた。そのため首が曲がり手紙を読むのに上を向かなければ読めなかったという。


次の新教皇レオ10世はフィレンツェにある聖堂のファサードを依頼する。仕方なくカッラーラで大理石を切り出している時に別の地方の大理石を使えとの指示、運搬する道路がないため道路づくりに何年もかかってしまった。
その道路が出来た頃にレオ10世は死んでしまい計画は中止となった。

一事が万事このような調子でこうしたことに時間を費やされ生涯を通じて「最後の審判」以外に完成させたものは少ない。

「天才というものを信じない人、天才というものがなんであるかを知らない人は、ミケランジェロをながめるがよい」


最後の審判