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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ロートレック 

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

ナイトクラブの貴族



Henri de Toulouse-Lautrec

1864~1901

 

フランス
 
 
1864年11月24日、トゥールーズ=ロートレック=モンフア伯爵夫妻に男児が生まれた。彼は、先祖には十字軍で戦ったものもいるという、フランスで最も古い家柄の一員として成長した。19世紀末には、フランスの貴族階級は政治的な力はほとんど失っていたが、しかしロートレック家はきわめて裕福であり、フランス南西部のトゥールーズにほど近いアルピ近郊に土地を所有していると同時に、パリにもアパートを保有していた。

 ロートレックの体は子供同然であったと一般的には伝説化されているが、それでも彼は150cm以上には成長した。彼の大きな頭と不釣り合いな体のせいで、子供のように見えたのである。さらに、子供のころ、かわいい「小さな宝石」と愛情をこめて呼ばれていた、厚い唇、まるまっちい鼻、そして近視の目は、成長するにつれて逆に醜いものになっていった。彼の自画像や手紙に自分をどうとらえていたかがはっきりと示されている。
 骨折事故をのぞいては、ロートレックの初期は比庫交的平穏であった。彼は少年期のほとんどを祖父の家で過ごした。

 彼の父や叔父はデッサンに優れていた。若いアンリもその影響を受けたようで、14歳のころには、馬と狩猟の絵を専門に描く聾唖者の職業画家ルネ・プランストーの指導を受けている。

 1882年、ロートレックは母とともにパリに移り、肖像画と歴史画を専門とする画家レオン・ボンナのアトリエに入った。ボンナはロートレックのデッサンを「ひどい」と考え、彼にフォルムに対する感覚をつけるよう指導した。数か月のちにボンナがアトリエを閉鎖したので、口−トレックと他の学生たちは歴史画家フェルナン・コルモンのもとに入った。コルモンは彼の才能を信じた。
 
 1885年ころになると、ロートレックはパリで若い画家としての道を歩み始めていた。
 1886年に、ロートレックの両親は、彼のアトリエを借り、医学生の友人のアンリ・ブールジュとアパートにいっしょに住むために必要な仕送りをした。

アパートとアトリエはいずれもモンマルトルにあった。この鼻眼鏡をかけ、山高帽をかぶり、ステッキをもった小さな芸術家の姿は、そこではおなじみになっていた。とくに夜はそうであった。そして、夜ふかしをしてカクテルやワインを飲み、しゃべり、絵を描き、時に眠り、猛然と仕事に打ち込むといった彼の生活のパターンができあがった。

 ロートレックはとくにキャバレーが気にいっていた。彼のたまり場の1つ「シャ・ノワール」は歌手のアリスティード・ブリュアンがひきついで、「ミルリトン」と名前も変わった。その雑然としたキャバレーの雰囲気に口−トレックはひかれ、足しげく通うようになる。画家と歌手は親しい友人となり、ロートレックは、ブ`リュアンの特徴をよくとらえたポスターを制作した。それは黒いコーデ`ユロイの上着を着て、つばの広い帽子をかぶり、朱色のマフラーをして顔をしかめたものである。
 しかし、ロートレックは、パリの夜の世界へのめりこんだつけを支払わなければならなくなった。大酒飲みになり、そのうえ梅毒までおかされたのである。医師ブーレジュが彼の治療にあたった。1890年代の初めに、彼は数々の傑作をものにしていったが、すでにこのとき、自己破壊の種はまかれていた。



「ラ・グーリュ」ポスター

 ロートレックはいくつかの新しい分野に手を広げていた。彼は、定期的に雑誌に挿絵を描いていたが、1891年には、クラブ
「ムーラン・ルージュ」から店のポスターを依頼された。その店には2年前の開店の夜以来足しげく通っていた。そのときの作品が、骨なしヴァランタンの戯画的シルエットの背後で踊る踊り子を描いた有名な≪ラ・グーリュ≫のポスターである。ロートレックは一躍パリで最高のポスター作家として迎えられた。この10年間に、彼は収集家のアルバムや、メニュー、劇場のプログラム、本の挿絵などのために、数多くの版画を制作した。彼は仕事に真剣に取り組み、パリの版画業者から高い尊敬をよせられていた。彼は、朝、夜の服装のままで現れ、休みもせずに1日中働いた。



クラブ「ムーラン・ルージュ」


 1890年代には、ロートレックは演劇にも関心をもち、上流の知識人たちとも交わるようになった。彼は、当時の芸術雑誌『ラリレヴュ・ブランシュ』の挿絵を描いていたピエール・ボナールやエドゥワール・ヴュイヤールといった画家たちと交際するようになった。ロートレックはまた、この雑誌の発行人の1人の妻であったミシア・ナタンソンに魅了され。1895年には、この雑誌のためにデザインしたポスターに彼女を描いている。だが。彼の情熱は報いられることはなく、ロートレックは自分と同じ階層の女性と性的関係をもったことはなかった。
 欲望を満たすために、彼はパリの中心街の高級娼家を訪れた。娼婦たちはベッドをともにすると同時に、よき医師ブールジュモンマルトルにおけるロートレックの同居人は医師であった。
彼はロートレックがナイトクラブへ出かけるのに同行し、また彼の性病の治療をした。


「ムーラン・ルージュに入るグリュー」

 1899年2月、精神錯乱の激しい発作の後、ロートレックは、母親に連れられ、パリの郊外にあるヌイイーの個人病院に監禁状態にされた。永遠に鍵をかけられて閉じ込められるというおそれが、彼のすみやかな回復を助けると期待されていた。ロートレックは自分には創作能力があることを証明するかのように、おもにサーカスの情景を思い浮かべながら、再び絵を描き始めた。だが、母親は彼をサナトリウムに移すことにした。彼の遠縁にあたるポール・ヴィオーが監視役をすることになった。
 ヴィオーはロートレックを週末には海岸に連れていったり、彼が最後に熱中したオペラに連れていったりしたが、36歳だというのに、彼はすでに老人のようであった。 1901年の夏、ボルドーの近くで海の風にあたっているなかで彼は倒れた。母親はロートレックをマルロメに連れて帰り、1901年9月9日、彼はここで没した。