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シャン=オノレ・フラゴナールは1732年4月5日、フランスのプロヴァンス地方の村グラースに生まれた。 南仏プロヴァンスの実り豊かで多彩な風景がフラゴナールに決定的な影響を与え、明るい色彩の好みを育んで、のちの多くの作品に見られる華麗な背景を生むもとになった。また、牧歌的な地中海の風上は陽気で屈託のない気質を育むのにも役立ったとみえ、そのおかげで彼は友人やパトロンからおおいに愛されることになる。 母親は息子をフランソワ・ブーシェの工房に連れていった。官能的、牧歌的な作風で人気を博していた画家である。だが、ブーシェが未経験な弟子を受け入れたがらなかったので、フラゴナールは繊細な描写の風俗画を得意とする優れた画家シャン=バティスト・シャルダンに弟子入りした。シャルダンは現代版画を模写して学ぶよう弟子たちにすすめ、自分の入念な技法をも教え込んだ。フラゴナールはたちまち厳格な訓練に嫌気がさし、6か月にしてシャルダンの工房を飛び出した。 1752年には画学生羨望のローマ賞に応募するようすすめた。フラゴナールは持ち前の技量を発揮して、要求されるような「グランド・スタイル」で宗教画を描いて最初の挑戦でみごと受賞し、ローマ行きの切符を手に入れた。 1761年の秋に、フラゴナールはパリに戻った。つづく数年間、フラゴナールは比較的無名のままに活動し、風俗画と牧歌的風景画を手がけ、ティヴォリでのスケッチを≪ティヴォリのヴィラ・デステの庭≫のような画面に仕立てた。しかし1765年に、 メロドラマ風の歴史画の大作≪コリロエーを救うために自害する大祭司コレシュス≫によって彼は初めて公的な成功を得た。この作品はフラゴナールにアカデミー会員の地位をもたらし、パリのサロンでも熱狂的な支持を得た。特に、ブーシェの手厳しい批判家として有名な批評家ドニ・ディドロに絶賛された。だが、フラゴナールはこの成功のあとを追わなかった。 王室建造物局長が絵をタピスリーに仕立てるよう注文したが、王国財務局からの支払いは遅れ、彼はまもなくもっと金のもうかる絵画制作のほうに向かうようになった。 フラゴナールはすでに官能的な場面を描く画家という名声を得ていたらしい。というのも、1766年にサン=ジュリアン男爵から、現在≪ぶらんこ≫の題名で知られる艶めいた作品の依頼を受けているからである。これ以降、女優、金融業者、富裕な美術愛好家たちの客間や私室を飾る、色恋を扱った官能的な作品へと舵を切ったのである。 |
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