ジョルジュ・スーラは1859年パリの裕福な家庭に生まれ、ナポレオン三世によってパリの町が大改造される時代に育った。素人画家の親戚が絵の手ほどきをしスーラも絵画の世界にのめりこんでいった。
資産家の父親もスーラが画家になることに賛同し経済面から息子の活動を支援した。そのおかげでスーラは生活の心配をせずに制作に専念できた。
1878年、官立美術学校に入学するが、成績は80人中77番目と、あまり芳しくなかった。
1883年、サロン(官展)に二点の素描を出品した。作品はあ輪郭線を全く使わず明暗のみで対象をとらえるというスーラ独自の斬新な手法で描いたもので批評家から高い評価を受け一点が入選した。
独自の手法に自信を持ったスーラは油彩作品「アニエールの水浴」に着手し、翌年のサロンに出品したが落選した。しかし、スーラの新しい技法はこの作品によって方向づけられた。
「アニエールの水浴」1884年 油彩 カンヴァス 201x300cm
この作品は1884年に初めて開催された「アンデパンダン展」にも展示された。
「アンデパンダン展」とはサロンに落選した画家たちがサロンに対抗して開催したもので会費を払えばだれでも無審査で出品できる展覧会。スーラはこの協会の会合に度々出席しておりそこでポール・シャニックと知り合った。シャニックは無口なスーラとは対照的に饒舌で社交的でピサロや印象派の画家たちを紹介した。
スーラは次の大作の制作に取り掛かった。それがスーラの代表作「グランド・ジャット島の日曜日に午後」である。
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」1886年 油彩 カンヴァス
207.6x308.1cm
スーラの新しい技法「点描法」はこの作品を持って完成した。
1888年、ピサロの要請で「第八回印象派展」に出品されたがモネやルノワールの反感をかい印象派内の分裂を決定づけることとなり「印象派展」はこれ以降開かれていない。
しかし、批評家のフェリックス・フェネオンは、斬新な彩色法を絶賛し、印象派から大躍進を遂げたとしスーラやシャニックたちを「新印象派」と名付けた。
スーラは私生活においては極端な秘密主義者でスーラの母親でさえ彼が死ぬ二日前まで彼に妻と子供がいたことを知らなかった。
1891年3月、ジフテリアで死去。享年31歳。
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