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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ルオー 

ジョルジュ・ルオー

道化師に潜む神を描く



Georges Rouault

1871〜1958

 

フランス
 
 ルオーの父親アレクサンドルは,ブルターニュ地方出身の家具職人であった。ピアノの仕上げの名工であったという。母方の祖父アレクサンドル・シャンダヴォワーヌは,郵便車の主任として働いていた。いずれにせよ,ルオーは,典型的な労働者階級に属する家庭に生まれたのである。その一家の中で,ルオーの生育に最も大きな影響を与えたのは,祖父のシャダヴォワーヌであった。祖父は,日曜日になると小さな孫を連れてセーヌに沿って散歩をした。その折々,彼は古本屋をのぞき,マネやクールベなど近代絵画の巨匠たちの複製画や,ドーミエの版画などをもとめ,自分の部屋に飾ったという。
もともと身体の弱かったルオーが,無事に成長できたのは,この祖父が,つねに愛情にあふれた関心をそそぎ続けたからであると言われている。ルオーは,生涯にわたって変わらぬ尊敬の気持ちを祖父に対して抱き続けた。

ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人エミール・イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明かにステンドグラスの影響が見られる。



 「老いた王」1937年


ルオーは修業のかたわら装飾美術学校の夜学に通った。1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学、ここでマティスらと知り合った。同校でルオー、マティスらの指導にあたっていたのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローであった。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。ルオーは終生、師モローへの敬愛の念が篤く、1903年にはモローの旧居を開放したギュスターヴ・モロー美術館の初代館長となっている。ルオーは同美術館に住み込みで働いていたが、給料は安く、生活は楽ではなかったようだ。

ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的だが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。ルオーは版画家としても20世紀のもっとも傑出した作家の一人で、1914年から開始した版画集『ミセレーレ』がよく知られている。

1917年、画商アンブロワーズ・ヴォラールはルオーと契約を結び、ルオーの「全作品」の所有権はヴォラールにあるものとされたが、この契約が後に裁判沙汰の種になる。ルオーは、いったん仕上がった自作に何年にも亘って加筆を続け、納得のいかない作品を決して世に出さない画家であった。晩年、ルオーは「未完成で、自分の死までに完成する見込みのない作品は、世に出さず、焼却する」と言い出した。ヴォラール側は「未完成作品も含めて自分の所有である」と主張したが、「未完成作の所有権は画家にある」とするルオーの主張が1947年に認められ、ルオーは300点以上の未完成作をヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火にくべたのである。それが彼の芸術家としての良心の表明だった。

ルオーは第二次大戦後も制作を続け、1958年、パリで86年の生涯を終えた。国葬を賜った。

作品




  「ヴェロニカ」 1945年
 
 作品はギャラリーアオキ「ルオー」のページで購入できます。