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1699年、パリで家具職人の父親のもとに生まれる。1718年から歴史画を得意としていたカーズの工房に入って画業を開始。1720年にはコアペル(Noël-Nicolas Coypel)にも短期間師事し、その間に静物画を描く助手をつとめたことがあるらしい。 1728年に《赤エイ》で認められて王立絵画彫刻アカデミーの正会員となったが、その後も生計を立てるためフォンテーヌブロー宮殿の修復作業などに参加している。 1730年頃から静物画の作品が増え、台所の食器類や食材などを題材とする作品が制作されている。 1731年からはサロン・ド・パリ(官展)に出品を開始。この年にマルグリト・サンタールと結婚、11月には息子ジャン=ピエールが洗礼を受けている。 1733年頃からは風俗画の作品が増え始め、その大半が食卓の情景やカード遊びに興じる子供などセーヌ左岸の日常生活を主題とする。1735年、妻が死去。1740年にヴェルサイユ宮殿へ参内して献上した《働き者の母》と《食前の祈り》はシャルダンの作品としては特に知られている。1744年にフランソワ=マルグリト・プジェと再婚。 1752年以降、国王の年金を受けており、また1755年からはアカデミーの会計官をつとめたほかサロンの陳列委員も任され、1757年にルーヴル宮殿にはアトリエ兼住居を授かっている。これは絵画のなかで歴史画に最高の価値が置かれていた当時、風俗画家としては異例の名誉で、彼の作品の買い手や注文主の多くも、国内外の王侯貴族だった。とくにエカチェリーナ2世は、サンクト・ペテルブルクにあるアカデミーの建物のために装飾画を注文しているし、他にも風俗画を含む数点のシャルダン作品を所有していた。 晩年は息子の溺死 (1772年)、アカデミー会計官の解任 (1774年)と不遇が続き、1779年に死去した。 美術全盛の18世紀フランスを生きた画家であるが、その作風は甘美で享楽的なロココ様式とは一線を画し、穏やかな画風で中産階級のつましい生活や静物画を描き続けた。ロココ芸術には批判的だったディドロでさえ、1769年のサロン評で「シャルダンは歴史画家ではないが、偉大な画家である」と記している。 シャルダンの作品は日常的・現実的な題材や真に迫った写実表現などに17世紀オランダ絵画の影響が顕著に見られ、活躍中からフランドル絵画に喩えられていた。また彼の画面構成や陰翳描写は、しばしば後の印象派の先駆とも形容される。 |
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シャルダンの作品 | ||||
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