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ブーシェの父は、刺繍のデザインを行っていた装飾家であり、職能組合的組織である聖ルカ・アカデミー所属の画家ニコラ・ブーシェ(1672-1743)であり、フランソワ・ブーシェはこの父から絵画術の最初の手ほどきを受けたと考えられている。 ブーシェは1723年ローマ賞を受賞する。だが王立建造物局長官のダンタン侯爵の寵を得ていなかったブーシェは勅許状をえられなかったため、イタリア留学にあたって経済的な支援を受けることがでず、結果として経費自己負担で留学することを与儀なくされた。 イタリアにおけるブーシェの活動内容の詳細は不明である。アカデミーの他の芸術家たちとは異なり、ブーシェはラファエロやミケランジェロの作品研究にいそしむことはなく、ルネサンス期の巨匠たちから様式上の影響を受けることもかったようである。 1731年にブーシェは王立絵画彫刻アカデミーの準会員 agrée として認められる。1734年にブーシェは《リナルドとアルミダ》(ルーヴル美術館)を提出し、正会員としてアカデミー入会を果たす。 ポンパドゥール夫人の寵の厚かったブーシェは国王ルイ15世の覚えもめでたく、1755年にゴブランのタピスリ製作所の監察官を拝命すると、翌年にはジャン=バティスト・ウードリの後任として同製作所の長官に就任する。このころブーシェはボーヴェやゴブランのタピスリの下絵やパリのオペラや公の祝祭で用いる装飾下絵を大量に制作する。 1762年から務めていたカルル・ヴァン・ロー の後任として、ブーシェは1765年、ルイ15世の「国王の筆頭画家」を拝命し、同年には王立絵画彫刻アカデミー院長の座に就いた。 ロココが新古典主義に取って代わられると、ロココ文化を否定する動きが見られた。ブーシェも晩年はその絵画だけではなく、人格も非難されるようになった。ブーシェの死から30余年後にその大作が競売されたときは、ほとんど値段がつかないほど不人気であった。 |
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ブーシェの作品 | ||||
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