ロンミイは父ヴィアンとトーネの弟子で、1810から36年までサロンに出品し、風景画家として注目された。なかでもイタリア風景が得意で、1817年のサロンには3点、19年にも3点、22年には5点、また27年にも景観画を出品している。
ロンミイは1818年に王室から注文されたフォンテーヌブロー城のディアナ回廊の装飾に高名な画家たちとともに参加した。この大作はその時のもので、作品には興味深い点が二つある。
ひとつは絵画上の問題で、そこには1822年からパリに現れたジオラマ(半透明の絵に光を当て本物のように見せる仕掛け)を予告するすべての視覚的要素が集められている。ロンミイは実際にジオラマの仕事に携わっており、彼が本作品で措いているのは眼を楽しく刺激する絵である。人物たちは、広いパノラマ景観で捉えられた都市を背景として、舞台の一場面のように配置されている。そこに照明が当てられ観者が暗所にいれば、もうジオラマの世界となるような構成である。また、空間を再構成するこの試みは非常に興味深く、フランス風景画の展開に影響を及ぼすことになるものである。
第二は歴史的視点である。包囲した首都の再征服を試みながらも「戦争の定石」を無視して食料補給隊の入市を黙認するアンリ4世の寛容を強調するというテーマは、王政復古期の芸術政治学の例証ということになる。アンリ4世(1610年没)はフランス史でもっとも人気の高かった、また人気が持続するであろう国王である。というのも、アンリ4世の出自であるブルボン家の支配する王朝は、宣伝のため、美術家たちに「良き王アンリ」の生涯を描く機会を絶えず提供してきたからである。1814年から24年まで王位にあったルイ18世も、アンリ4世と同じように敵対する諸党派間の妥協と寛容という考えに傾倒していた国王だったのである。
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