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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ミレー
ギャラリーアオキ
ジャン=フランソワ・ミレー
孤高の開拓者
Jean Francois Millet
1814〜1875
フランス
ジャン=フランソワ・ミレーはフランス北部シェルブール近郊の村グリュシューに八人兄弟の二番目、長男として生まれる。
生家は裕福ではないが格式のある旧家で、父は農業の傍ら教会の合唱団の指揮者でもあり、また、彫刻もしていた美術愛好家でもあった。
家庭は敬虔なカトリック教徒で、祖母が忙しい母に代わり子供たちを育てたが、それは厳しくも愛情豊かであった。
ミレーのその後の作品の中に祖母の教えが息づいている。
長男であるがゆえに本来、父のあとを継ぎ農業を続けるべきであったが父はミレーの才能を認め画家になることを許した。祖母の勧めでシェルブールに出て画家ラングロワの画塾に入るが成績優秀なためシェルブール市から奨学金を得られパリの国立美術学校に入門する。
しかし、授業内容やパリの風になじめず1839年美術学校を退学してしまう。その結果、市からの奨学金も打ち切られ、生活のために彼の嫌いだったヴァトゥーやブーシェのような風俗画や裸婦を描かなければならなかった。
だが、翌年のサロンで『ルフラン氏の肖像』が入選し郷里でもそのことが評判になった。ついに画家としての第一歩を踏み出すことが出来たのである。
地元シェルブールでポーリー・オノと結婚し肖像画家として活動するが、三年の間あまり評判は得られず再び新妻を連れてパリに出たが貧しく不遇な年月を送るうち1844年、妻ポリーヌも若くして病死してしまう。ミレーにとって最悪の3年間であった。
その後、シェルブールで二人目の妻となるカトリーヌ・ルメールと出会うが実家が結婚に反対したため二人は駆け落ち同然でパリに出た。
その後も極貧生活は続くがカトリーヌは貧しさに耐え献身的に夫ミレーに尽くし生活を支えた。カトリーヌの支えなしに巨匠ミレーはありえなかったといえる。
1848年のサロンで『箕をふるう人』が好評を得て新政府によって買い上げられ、内務大臣からも注文を受けることとなった。この頃から農民画家としてミレーの画風が確立し始めてきた。
しかし、パリではコレラが流行り始めたため、妻と3人の子供をつれ郊外の村バルビゾンへ避難した。数週間で再びパリに戻るつもりだったがバルビゾン村が気に入ってしまい、この地で作品作りに没頭した。生活は相変わらず楽ではなかったが、少しづつ評価が高まり『落穂拾い』『晩鐘』『羊飼いの少女』など後世、傑作といわれる名画が生まれ出てきた。
しかし、不思議なことにミレーの評価はすでにアメリカで高まっていた。『晩鐘』がプロテスタントのアメリカ人に賞賛をもって迎えられたのである。
1860年、ミレーの作品はベルギーの画商に25点も高額で売れ、貧困生活に別れを告げることとなる。ミレー46歳である。
1867年パリ万博で『落穂拾い』『夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い』などを出展し、地位と名声を揺るぎないものとした。
その後は画家として巨匠の道を歩み1874年家族に看取られながら亡くなった。享年60歳。
ミレーの作品
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