ゴッホの手紙より

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炎の画家ゴッホの内面を手紙から読み取る

ゴッホほど沢山の手紙を書いた画家は世界広しといえどもいないであろう。
おかげでゴッホという人物像に迫ることが出来るのは幸いなことである。
もちろん、ゴッホ自身は後世に残すつもりで手紙を書いた訳ではないのだが、結果的に彼の死後120年経った我々にも彼の思いの一端に触れることが出来るのは素晴らしいことだ。

今日、我々がその手紙を読めることについて忘れてはならない人々がいる。手紙を書き送った弟のテオドル、その妻ヨハンナ、友人で画家のベルナールである。
ゴッホは弟のテオと友人のベルナールに膨大な手紙を書き送っている。弟のテオも決して裕福ではなかったが兄フィンセントを経済的に支援した。また、ベルナールはゴッホより年若だが何かと展覧会などの相談相手になっている。そして、テオの妻ヨハンナはゴッホ兄弟の死後、膨大なゴッホの手紙を整理し書簡集を世に出した。
世の中がゴッホの作品に見向きもしなかった時でも 彼らはゴッホの才能に対する良き理解者でもあったといえる。

1890年、ゴッホは37歳という若さで自ら命を絶った。画家としての活動は27歳からのたった10年間であるが、手紙の中には芸術家としての思いと心の葛藤が随処に見られる。
夢や希望を持ちながら何度も挫折し、生涯でたった一枚の絵しか売れなかった男の胸中はどのようなものであったのだろうか。
そんなゴッホの作品を世に知らしめるきっかけとなったのがテオの妻ヨハンナが出版した書簡集である。

ヨハンナが膨大な日付の無い手紙を読み返し、日付を推定しながら整理するという気の遠くなるような作業を繰り返し、まとめた書簡集がパリで評判になり、世界に広がっていった。同時にベルナールなどの協力を得て開いた展覧会ではポスト印象派の旗手として大きな評価を得て、今日我々が知るゴッホが誕生したのである。

また、ゴッホは日本の浮世絵から多くのインスピレーションを得ており、浮世絵がゴッホに与えた影響は多大なものがある。
そのため手紙には「日本」という言葉が頻繁に登場する。彼の心の中の日本は「夢の国」そのものであったようだ。(ジャポニズム

我々日本人にとって何ともうれしいことであると同時に「浮世絵」の素晴らしさと広重、北斎、国貞の偉大さを再認識させられた思いである。



   
  
    
   「赤いぶどう園」 
1888年 油彩 カンヴァス 75x93cm
モスクワ プーシキン美術館

 この作品は1890年1月にベルギーのブリュッセルで開かれた「20人会展」に出品し、友人の姉が400フランで購入した作品。(今日の日本の金額に換算すると10万円くらい)ゴッホの生涯で売れたたった一枚の作品である。
    この年の7月、ゴッホは自ら命を絶った。
     


手 紙


 



 テオ宛の手紙 1885年 ヌエネンから

 あの絵は実に暗い.絵の主題は.小さなランプに照らされた灰色の室内だ汚れた亜麻布のテーブル掛け,すすけた壁,女たちが野良仕事にかぶる汚れた帽子,ランプの光の下で目を細めて見ると,すべてが実に暗い灰色であることがわかる.
 ランプの光の下で馬鈴薯を食べている人たちは,いま皿に伸ばしているその手で土を掘ったのだ.ぼくはそれをはっきりさせようとした。だからこの絵は手とその労働を語っていて,百姓たちがどんなに正直に稼いで自分の賄いを手に入れたか語っているんだよ。
 ぼくはこの絵を描きながら「彼の百姓たちは種まきをしている畑の土で描かれているみたいだ」とミレーの百姓について語られた言葉をなんとそのとおりだと考えたことだ.もし百姓の絵にべ−コンや塵,馬鈴薯の湯気のにおいがしたら,上出来だよ。畑には熟れた麦,馬や,鳥のこやしのにおいがぶんぷんしてぃたら,そいつは健全だ。

テオ宛の手紙 1886年 ベルギーからパリに到着したところ

 まっすぐ来てしまうつもりではなかったのだが、さんざん考えたあげくなんだ、これでお互いに時間を無駄せずにすんだと思う。
僕は正午からルーヴルで待っている、君の都合でもっと早くってもいい。
  サル・キヤレー 『四角い室』へ何時に来られるか返事をくれないか。繰返していうけれど、生活費は今までと同じだけしか掛からないはずだ。
金はまだ残っている。それを使う前に君と相談したいんだ。きっとうまくやれるよ。
 だから早く来てくれ給え。


  この走りがきは、1886年3月パリヘ着いたばかりのヴィンセントがテオへその到着を知らせたものである。
  バリ滞在は1888年の二月、アルルヘ出発するまで続いた。


テオ宛の手紙 1887年 夏

 君の便りと一緒に同封のものを有難う。
 たとえ成功しても、絵では必要経費さえ取戻せないのがやりきれない。
 『まあ、だいたい元気だが、会うと悲しくなってしまう』と、君が家族のことを知らせてくれたのは、つらかった。
十何年か前だったら、うちはいつまでも安泰で万事うまくゆくと信じきれただろうに。
君の結婚がうまくいったらお母さんはさぞ喜ぶことだろう、それに健康のためにも仕事のためにも独身でいては駄目だ。

僕は−結婚したいとも子供をほしいとも思わなくなったが、それにそんな風には全然考えもしないのに、それでも三十五にもなってこんな有様なのが時には憂鬱だ。
 だから、絵との悪縁がときどきいやになる。 リシュパンがどこかでこんなことを言っていた。
 『芸術愛は真の愛情を失わせる。』  まったくその通りにちがいはないが、その反対に、ほんとの愛情は芸術をきらうのだ。



ベルナール宛の手紙 1888年3月 アルルへ移って間もない時)

 約束通り筆を執ってみたが、まずこの土地の空気は澄んでいて、明快な色の印象は日本を想わすものがある。
水は綺麗なエメラルド色の斑紋を描き、われわれが縮緬(ちりめん)紙の版画でみるような豊かな青を風景に添える。

淡いオレンジ色の落日は、土を青く感じさす。毎日太陽は黄色く輝いている。しかし僕はこの地方の夏の素晴らしさを全く知らないのだ。
女の服装は綺麗で、ことに日曜日の並木道では素朴でとてもうまい色の組合せをみる。だから、夏になればもっと陽気になるだろう。

 ここの物価は、僕の考えていたよりも高くて困る。ボン・タグェンで生活した頃のようなわけにはいかない。
僕は最初五フランずつ毎日払っていたが、今では四フランでなんとかやっていける。
ここの方言をおぼえてブイヤベースを食べられたら、そんなに高くない中流の素人下宿でもきっと見つかるだろう。
それに、みんなで一緒に住めたらもっと安くなるに違いない。

 太陽と色彩を慕う芸術家達には、あるいは南仏へ移住した方が実際に有利かもしれない。
もし、日本人が彼等の国でまだ進歩していなければ、その芸術は当然フランスで引き継がれるであろう。





    テオ宛の手紙 1888年 アルルから

ぱくは今日15号を一枚持ち帰った。小さな馬車が通っているはね橋の絵で,青い空にそのプロフィルを映している.空と同じように青い川と緑の草が生えてりるオレンジ色の土手、白キャラコとポンネをかぶった洗濯女の一群。
 ばくは日本にいるような気持がしているのだ。ここでぼくは新しいものを見て学んでいる。そしてぼくの体もちょっと、優しくいたわってやるだけで、ぼくに仕えるのをこばんだりはしない。


     

テオ宛の手紙 1888年 アルルから  (ゴーガンについて)

テオ、僕はゴーガンのことを考えている。
それで  もし彼が当地へ来たいのだったら、旅費を負担して、寝台を二つと藁布団(わらぷとん)二つを、どうしても買わなければならない。
 でも、彼は船乗りだから、うちで自炊できるかもしれない。そうして僕一人で使っている金額で、二人暮せる。
 画家が別々に一人で暮していることは、馬鹿げているような気がしていた。孤立しているといつも損する。
 ゴーガンを今の窮地から救いたいという君の希望への答えだ。
 ブルターニュにいるゴーガンとプロバンスにいる僕とに、君が同時に生活費を送れるはずもない。
 しかし分配した方がいいと君が思うなら、例えば月に二百五十フランと決めてくれれば、僕の作品のほかに毎月ゴーガンの作品ももらえて、その方が得にならないか。
 他人と協調するのは僕の願うところである。ゴーガン宛の手紙の下書きをかいて同封してみた、君が賛成してくれれば、無論、言い廻しをなおして出すことにしょう

 

テオ宛の手紙 1888年 アルルから
  (ゴーガンについて)


 月曜のあさ電報為替五十フランを受取った、有難う。でも、まだ君から便りがないのでそれが少し気になる。

 ゴーガンから知らせがあって、君から五十フラン同封の手紙が届いて、われわれの計画を伝えたのに感動している。
僕のゴーガン宛に書いた手紙は君に送ってしまったから、彼がそれを書いた時にはまだハッキリした提案を受取ってほいなかったのだ。
 でも彼はそれは経験ずみだと言っていて、友人のラブァルとマルチニッタ島にいたとき、二人で共同生活をしていた方が別々にやるよりも有利だったと、共同生活の利点を認めて賛成している。腸の痛みがまだずうっと続いていて、とても憂鬱らしい。

 印象派を扱う画商をつくるために、資本金六十方フランを工面できそうだからと、その計画を説明していたが、その際、君に事業の指導者になってもらいたいといっている。
 たとえそれが一獲千金の妄想か、困窮からの蜃気楼でも、絶体絶命の立場に追いつめられれば  殊に病気ならなおさら余計そういうことを信じたくもなろう。
 こういう計画を立てること自体に、僕はもっと彼がしびれを切らしている証拠を見せられたよぅな気がする、できるだけ早く助けてやった方がいい




テオ宛の手紙 1888年 アルルから


 ぼくはついにモデルをみつけた.アルジェリア歩兵,小さな顔.牛のようなくび,虎のような目をした青年だ。
最初に1点肖像を描き、また別なのを始めている.半身像の方は無気味に堅くなってしまった。
青い瑞坤鍋(ほうろうなべ)の色をした軍服を着て,色があせて赤っぽいオレンジ色になってしまった金モールをつけ、胸には二つの星がある。ありふれた青をだすのは実にやりにくい。

日焼けしていて、猫のような頭に赤いポンネをかぶった男で、緑色に塗られた戸とオレンジ色の煉瓦の壁によりかかって坐らせた。
こんなようすの荒っぽい定色だから調子がそろいにくく、取り扱いはめんどうだった。
この習作は自分でもとても堅いと思っているんだが,こういう粗野なけばけばしい感じのする肖像をぼくは日頃描きたいと思っていたんだ。

テオ宛の手紙 1888年 アルルから

 百フラン同封の手紙を受取ったところだ、有難う。(おなじくブラッセル発信の)五十フラン同封の先便も、二通とも間違いなく受取った。
中略
 君はクロード・モネのうちで美しいものを見るから、それに比べて僕が送るものを不出来だと思うだろう、現在、僕は自分自身に対しても不満だし、作品にも満足していないが、この次にはもっといいものが出来そうな気がする。
 そして将来、日本人が日本でしたことをこの美しい土地でやるほかの芸術家が現われてくることだろう。
ここの自然がいつまでも好きなことは今後も変るまい、それはまるで日本美術のようなもので、一度好きになると決して飽きない。

 
    

テオ宛の手紙 1888年 アルルから

 親切な手紙と同封の五十フラン札とを有難う。どっちみちゴーガンに手紙を書くとしよう。
旅行が厄介で悩みの種だ。約束して後で都合が悪くなったら、困ってしまう。今日ゴーガンに手紙を書いて、それを君に送ろう。
 ここの海を見てきたいま、南仏に滞在することの意義を切実に感ずる。もっと色を強烈に使わなければ − アフリカは近いのだ。

  たとえ物価が高くても南仏に滞在したいわけは、次の通りである。
日本の絵が大好きで、その影響を受け、それはすべての印象派画家たちにも共通なのに、日本へ行こうとはしない、つまり、日本に似ている南仏に。決論として、新しい芸術の将来は南仏にあるようだ。
  しかし、一人でいるのはまずい、二三人で互いに助け合った方が安く生活できる。
  
君が当地にしばらく滞在できるとうれしい、君はそれをすぐ感じとり、ものの見方が変って、もっと日本的な眼でものをみたり、色彩も違って感じるようになる。
  長い期間滞在するとすれば、確かに自分の性格も変ってしまうだろう。
  日本人は素描をするのが速い、非常に速い、まるで稲妻のようだ、それは神経がこまかく、感覚が素直なためだ。



  参考文献 「ゴッホの手紙」エミル・ベルナール編 硲 伊之助 訳 岩波文庫

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