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有名西洋絵画の解説と紹介をするインターネット美術館です。ピカソ ゲルニカ

作品解説「ゲルニカ」

パブロ・ピカソ(スペイン)1881〜1973

作品名:ゲルニカ
製作年:1937年
サイズ:349.3x776.6cm
技法 :油彩 カンヴァス
所蔵 :マドリード レイナ・ソフィア美術センター
ピカソ ゲルニカ
概要
 
内戦状態にあったスペインで、反政府側のフランコ軍を支援するナチス・ドイツ軍が1937年4月、スペイン北部バスク地方の町ゲルニカを無差別爆撃する。この市民を巻き込んだ殺戮を知り、描かれた作品。「スペイしンを苦悩と死に沈めた軍隊に対する憎悪を表現した」とピカソが語るように、この絵には、現実の戦闘場面が描かれているわけではなく、むしろ戦争によって与えられる恐怖や苦しみ、悲しみといった人間の普遍的な感情が示されている。画面右端の炎に包まれておののく女性、その手前の地面をはうように逃げる女性、さらには殺された子どもを抱いて絶叫している左端の女性など、それぞれの姿を大胆に変形して動作や表情を強調することによって、その感情をすさまじい切迫感をもって見る者に伝える。なお、本作は1937年のパリ万国博覧会スペイン共和国館に展示するために制作されたものだが、スペインが民主国家になるまでは返さないというピカソの信念により、1981年まで、ニューヨーク近代美術館に委託されていた。

1978年、スペイン・アメリカ合衆国の両国政府は絵画がスペインに移送されるべきであるという判断を発表し、スペインではピカソが名誉館長を務めたマドリードの国立プラド美術館、絵画の主題の対象地となったゲルニカ、ピカソの出生地のマラガ、ピカソが青年時代を過ごしたバルセロナなどが絵画の受け入れ先に手を挙げた。

1992年9月、マドリード市内に国立ソフィア王妃芸術センターが開館すると、絵画はコレクションの目玉としてプラド美術館からソフィア王妃芸術センターに移された。10年間絵画を保管してきたプラド美術館のフェリペ・ガリン館長は、「この絵画はたいへん重要な作品だが、プラド美術館の歴史的なコレクションとは必ずしも馴染まない」と語った。

ピカソはこの絵画と同じ図柄のタペストリーを3つ制作しており、ニューヨークにある国際連合本部の国際連合安全保障理事会議場前とフランスウンターリンデン美術館と日本の群馬県立近代美術館に展示されている。日本の徳島県鳴門市にある大塚国際美術館には絵画の実物大のレプリカが置かれている。

 下の写真はスペイン内戦時の写真(1936〜1939年)
時代背景スペイン内戦
スペインでは、ソ連を後ろ盾にした共和国軍の左派(社会主義)とナチスドイツのコンコルド旅団やイタリアなど枢軸国と手を組んで反乱を起こしたフランコ率いる右派(保守勢力)が、スペインの主権を争って内戦が起こっていました。(日本はフランコ側を支持)
この時ピカソはパリに住んでいましたが。左派政権を支持していたため共和国政府(左派政権)から、パリ万国博覧会のスペイン館の壁画を書いてほしいと要請を受けていました。
しかし、ピカソは、漠然とした依頼に何を題材にすべきかを悩んでいました。
1937年4月26日にドイツ空軍が右派のバスク地方のゲルニカに向けて「都市無差別爆撃」を行ったことが世界史上初の都市無差別空爆と言われており、当時このニュースはヨーロッパを始めアメリカにまで届きました。
パリにいたピカソが、「ゲルニカが全滅した」と聞き、パリ万博の題材には、このゲルニカで起こった悲劇にしようと決めました。

下の写真はドイツ空軍によって空爆を受けたゲルニカの町
 
 「ゲルニカ」を描いたピカソは直接その惨状を見たわけではありません。
作品の「ゲルニカ」は平和を愛する一人の画家として世界に戦争の悲惨さと愚かさを訴えたいとの思いから描いたに違いありません。
ですが、当時左派政権を支持していたピカソにとってはフランコ率いる保守勢力を非難する思いも強く込められていたのではないでしょうか。
しかし、一方で左派政権側の人民戦線軍(共産党系)も7千人もの聖職者を殺害していることを忘れてはならないでしょう。そしてピカソはそのことを知っていたのでしょうか。

作品評価
この作品が発表されたときの関係者の反応は一部の理解者を除き不評であったと言えます。多くの人の予想はもっと写実的で悲惨な作品を期待していたようでした。またスペインの危機やナチスの残酷さが十分に表現されていないなどの意見もあったようです。
逆にピカソの絵は醜いばかりで観る者の心を萎えさせるという人々もいたとのこと。

そうした不評の中で、前衛芸術家や一部の美術批評家の間では「この作品は傑作であり、やがて、世界の名画と言われるようになる」との評価も受けていました。

名画であるかどうかは見る人の主観によるものですが、世界的に名高い作品であることは間違いないようです。
ピカソ自身はこの作品に関して多くを語っていません。

ピカソを語る